昭和四十七年九月六日 朝の御理解
X御理解第四十八節 「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞くかぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」
 おかげを受けられる微妙な要諦とでも申しましょうか、おかげを頂けれる秘訣とでも申しましょうか、コツと言うてもよいでしょうねえ、おかげを頂くコツです。自分の可愛いい子供が病気をして、それを放っておくような気になってとおっしゃる。だからそれを中々、例えば、そうした子供の難儀というものを、目の当りに見て、親が心配しないはずもないし、やはり気になる。けども気になるからと言うて、ただ枕元におって介抱してやるだけで、ただ金光様金光様と、言うておるだけではね。私はおかげを受けられてもね、それが神を体認すると言うか、体験する事にはならない。折角のそういうまあ言うならば、いつもないような事柄に、直面した時には、それこそそれが神様をいよいよ分からせてもらう、又は信じさせてもらう、言うなら機会だと、いうような頂き方が出来ますとです。私は有難く出来ると思うですね。
 いわゆる放っておくその難儀というものを難儀と見ずに、本当におかげを頂くチャンス、神様を分からせて頂く、チャンス。御徳を受ける、力を受ける、チャンスだといったような頂き方が出来たら、もっと素晴らしい事になる。また事実がそうなんです。ですから信心の稽古をさせて頂くのですから、神様がやはり信心の稽古をさせて下さるのです。まあこの辺のところはいろいろ過程があります。子供が病気をする。兎に角枕元におってやって、ただ金光様金光様とお願いをする。薬にも頼る。お医者さんにも頼る。金光様金光様と、言うような程度の時もある。
 けれども確かに信心が、分かってくると言うか、頂けてくるようになると、神様をいわゆる信ずる力が出来てくるようになりますから、まあ普通から言うと、冒険ですねえ、と思われるような事が、もう本当は有難く出来るようになる。少しは冒険を感ずるけれども、まあスリルを感ずると言うのですか、気になるけれども、そんな事ではと、元気を出して、例えばお願いに参る、といったような時代から、それからね、今申します、その事が気にならんで、信心させて頂くというように段々なってくるもんです。
 これは幹三郎のあんな大病を致しました時に、もうそれこそ御信者の皆さんが、それこそ一生懸命で、お祈り添えをして下さった。毎日毎日沢山の人が、いわゆる勢信心のおかげを頂いて下さった。肝心要の親の私はどうであったかと言うと、ひとっつも気張らんでよかったと、いう事。ここはひとつ親が放っておかなければというようなもんではなくて、もうそれは何と申しますか、言うなら平日の通りといったような感じである。もうここに段々到って参りますとね。おかげは絶対だけではなくて、私はあの、幹三郎の病気を境に、私は得難いものを自分自身頂いた、これは実感が致しました。ですから、お互いのところを、例えばこれは、ひとつの必ず子供の病気という事ではありません。いろんな心配事とか、悩みとか、言うてもいいです。
 だからその普通から言えば、心配事であり悩み事であり、言うなら腹の立つような事であり、といったような場合であっても、それが心配にならん。不平不足を思わない。腹の立つような問題であっても、腹が立たん、という例えばおかげを頂いた時が一番、素晴らしい時なんです。そうすれば、その問題はよりおかげになっていくのです。けれどもまあ心配になったり情けなかったりするから、神様にまあおすがりをする訳ですけれども。そういう時にです。それを放っておくような気になって、だから心配はあるのです。気になって、信心してやれとおっしゃるが、そういう自分自身の難儀の場合は、そういう気になって信心するという事。
 御神訓に「体を作れ何事も体が元なり」とおっしゃる、体を作るという事は、力を受けるという事です。何をするにも、やはり健康という事が大事だと、いう事。ですから何をするにも心を作れ、心が元なりと言うてもいい訳なんです。ですからその心を作る機会というものは、いつもはないのです。今申しますように、ここはそんなら、子供の病気であってもよい。私はそんなら、幹三郎の大病によって、心に力を得たという事になりましょう。
 だから何かがある時には、それは体を作れ体が元とおっしゃる。本当言うたら、おかげの元というのは、心なんです。おかげは和賀心という和賀心なんです。その何事も、和賀心が元なり。何事もと言うより幸せはと言おうかね。幸せとか、幸福とか言うけれども、その幸福は、和賀心にあるのである。だからその和賀心を、元になるのであるから、その和賀心を作れと言うてもいい訳でしょう。そんなら、その和賀心を作るという事は、平穏無事の時には和賀心のようにあるのです。波風が立たない、金光様の信心しとるおかげで有難い、有難いと言うておる。
 けれども何かそこに、ちょっと心に波風が起こるような事になると、もうそれが心配になったり、腹が立つたりしておるところをみるとです。まあだ本当のもんでない証拠が分かります。だからその何かがあるという事はです。体を作るのは例えば、運動とか食物がいるようにです。その和賀心を創るにもです。やはり和賀心に、与える心の糧というものが要るのです。しかもそれを行使するという運動が要るのです。でなかったら和賀心はいよいよ、本当の意味においての和賀心、になってこないです。
 今日はわが子の病気でもと、自分の子供の病気なんか、というものは一番実感的に親としては心配になる、心配になるから神様に一心になる。一心になると言うても、なり具合がです。放っておくような気になってという稽古をさせて頂く、そこにはです。成程氏子が心配すれば神が心配せんですむとおっしゃる意味が分かる。神様に一心におすがりして神様にお任せする心が出来る。だから神様が氏子任せになって働いて下さる。私共が心配しておるとそれだけ、心配しておるだけ、おかげも頂きにくいし又、心配しておるだけ、おかげは垢抜けしないものになるです。
 不思議に、一生懸命信心させて頂きよると、その普通では心配事だけれども、その心配事が、心配でなくなってくる、心に安心が出来てくる。それは言うなら神様が十分に働きかけて下さっておるからなんです。だから心配する心で信心せよともおっしゃる。心配する心で信心すると、その心配が薄らいでくる。いや無くなってくる。そこに神様の、十分なお働きを受ける事が出来る。今日の御理解にやっぱりつながる事。信心を段々頂いておりますとですね。もう本当に楽しかったり嬉しかったり、という事をいつも感じる事が出来る。しかも人はあわてたり腹立てたりしておる事が、実を言うたら、嬉しかったり楽しかったりするのです。
 皆さんもそんな体験はおありでしょう。普通なら、これが信心がなかなら、そうにゃ腹かかにゃん事じゃろう。時にひとっつも腹かかんですむだけでなくて、もうニコニコとしておれる。本当に神様の御演出の素晴らしさに、驚いてしまう、恐れ入ってしまう、というような体験はないでしょうか。そうならなければ信心しておる値打ちは大体ないです。昨日もある方の結婚の事でお願いがあったんです。是非と言うて貰いに来なさる。
 だからまあこちらも行く気で、心準備しておった。ところがあやふやになってから、その後返事がないから、どうした事じゃろうかと思いよったら、まあ向こうから断わりにも来なさらんで、次の話があった。だからそれはちょいと待って下さい。前の話は片付いとらんじゃないですか、という訳なんです。ところが話を聞いてみると、向こうの方は、あやふやになって、どうも向こうが本気で頼んだごたったけれども、じゃないから、また別な所から、言うて来たから、その方へという訳なんです。話を聞くと、成程、それもいいから、そんならと言うて、その、行く気になったり、向こうも熱心にそれを言われて、という訳なんです。
 ところがその、今日関係の人達で、そちらの方へ、行って、まあ話がいよいよ纏まるという、事になったところが昨日、先方から本人が行方不明になったと、だから今日来て頂くようになっとったつをちょいと待って下さいとこういう訳です。それでその本人が先方に行って仲に立っておられる所に行って、こちらの言うなら面子が丸潰れ、一回ならず二回とも。しかも本当は、先方も本当に親切で、本当にこれならよかろうと思うてしょんなさるとが、そういう風にひとつひとつ崩れたり流れたり、というような感じになってくる訳です。
 けれども私はこういう時にです。もう本当にその時点を、ああそうですかと言えれる信心を頂きたい、ですね。こうこっちは思い込んどったつに、そげな風なら又こっちは、考えを変えにゃんならん。そういう風な、言い方をせずに、こちらの面子は丸潰れといったような言い方をせずに、ですね。もうその時点時点を、はあそうですかと言えれるという事です。ところが実を言うたら、大変やはり難しい事は、難しい事ですけれども。そういうチャンスはいつもはない。それを体得したら、本当におかげ頂ける。
 例えば私の方の直子が、もう四、五年前になりましょうか、善導寺にまだ弘子さんがおられまして、舞いの、稽古に行っとりました。もう大分おかげを頂いておった。よく舞うようになった。最後の仕上げを、善導寺に参りました。田中さんと直子と行って、丁度弘子さんの仕上げをしてもろうた。その仕上げをしよるところに、私がお参りし合わせた。そして直子と弘子さんと舞いよんなさるのを見て、もう、格段の違いがある訳です。直子も一生懸命稽古してそこ迄覚えたけれども、弘子さんの舞いを見ると、もうそれは素晴らしかです。
 だから明日の御大祭にはこれは、弘子さん、ああたの舞いを奉納して下さらんか、もう、折角奉納するならば、良い舞いの方がよいと私が言うた訳です。そしたら弘子さんも二つ返事で、私でよかなら結構ですと、言うて引き受けて下さったところが、どっこい自分の小さい胸に持てなかったのが、直子なんです。永い間一生懸命稽古して、明日の大祭の為に為にと言うて稽古をして、善導寺まで通うたり又は久留米に通うたり、して、ようやく、ここ迄させて頂いた。言うなら、晴れの舞台を心の中に描いておるところが、それをスパッと明日は舞う事が出来なくなってから、私が見ていたから、結局良い方をお供えしたいと、こういう訳なんです。
 暫くしたら直子がおらんごとなりましたもん。そしたら歩いて帰って来とります、腹かいて。けれどもこれはね、私は本当に、信心が無かったり薄かったりするなら誰でもそうじゃなかろうかと思うです。折角これだけ打ち込んで稽古しとるとに、スパッともうあんたはよか、こちらの人は上手じゃけんこちらの人にまわそうと、いう訳なんです。けれども、私の一途なものはより素晴らしいものを、お供えしたいというのが私の気持ちなんです。だから弘子さんの舞いを見とったら、弘子さんの舞いがいいから弘子さんにお願いしたら、弘子さんも二つ返事で、それを私でよかったらと言うて、引き受けて下さった。
 中々しかしこの辺のところが、‥‥私が今言おうとしておる事は、そういう事なんです。だから直子に今でも言いますが、あん時の事をあなたが思い出してね。あん時にほんなこて私よりも弘子先生の方が上手だから、神様にお供えさせて頂くのだから、と自分がハイと、こうスーッと、引けれる心というのです。けれどもね、これが頂けないと人間は絶対幸せにはなれんのです。ここんところが出来なければ。だからこれは直子に一生の掛け守りだと私は言う。そん時に腹の立ったというだけは、まだ自分の信心の不行届き、まあ出来とらんのであって、なあんでもない。まあ、明日は、派手を取ろうとか、折角稽古したんだから舞わしてもらわにゃと、いうようなものではなくてです。その時点時点を、ですね。本当に大事にしなければいけんと思うです。
 あの御建築の後に植木が沢山お供えがあった時に、堤さんのお父さんが、あちらの方へ見事な木があるから、それを献木したいと言う。はあそりゃよかろうなと言よったけれども、あんまりそれが大きくて、出来んし、しかも植える所もどこに植えてええじゃれ分からんから、秋永先生があげん言よったけれども、あの木は断るという風な意味の電話をかけた。そしたらお父さんがカンカンになって怒った。折角お供えしょうと思うておるのに、という訳です。いいえあんたがそげん言いなさるとなら、もう、持ってさえ来てもらや、どうかなろうばってんか、という事じやった。
 さあ雨の降る日に、もう何十人のここの人達が出てから、それを掘りに行ったんです。ところがあんまり大きいもんですから、怪我人も出たです。東さんなんか、こうやって、眼鏡を割ったりなんかした。そして、もう自動車に乗せてくる時に、段々葉をつけとったばってん曲り角やら曲がられんけんでもう、そこで切りそこでつみして来たけんでもう、ぼんぼら坊主のごとなってここえ来たです。さあここえ来る頃は、雨の降る中に、この大きな木を植えんならんとに、大きな穴掘りよるうちに、とうとう水道管を破っちやった。下の大きな水道管を、‥‥大変でした。
 それから又それを修繕して植えた。ところが梅里先生がちょいと見えて、この木は枯れますよと言わっしゃる。もう死相が出とると。そげな事はありますめえ、芽が出よるけんで、と言よったばってん。あれは木そのものが持っとる水分で出とるじゃから、あれは枯れますよと。そらもう運賃だけでも五万円からかかった。もう本当にその時点時点をです、大事にしないとそういう事になるとです。そして今度の御建築に又、邪魔になるから、向うさえやるのに又随分の手間がかかりました。そして今度は又あれを取るのに大変手間がかかるでしょう。
 例えば成程、お供えしょうというその思いは素晴らしいでしょうが、けれども、どこにも植え所がなかけんで、とこう言われた時に、ああそうですかと、ハイと言えれる心。お供えしょうと思うたけんでお供えする。こういうようなね、例えば相手の迷惑なんか考えないで、自分の思いを通そうとするところにです。助かってない問題がある訳です。そんならばお金ででもお供えさせてもらおうと、言うとったら、本当に有難い事になっとったでしょう。どうでんこうでんそこに、堤さんの我が出たところにです。いえあんたがそげな風な剣幕で言いなさるもんで、そんなら持って来て下さい。ところが持っては来れん。
 やっぱり持って行くからには、ここから青年会の方達やら沢山出てから、向うに掘りに行った。一日がかりで、もう、晩は遅う迄、雨の降る中を、折角植えたのが、そんなら結果に於てはそういう事になった。だからね、もう本当に、その時点時点を、例えば直子の場合でもそうです。その時点時点を自分が舞いを舞おうと思いよったけれども、よりよいものがあるから、直子さんそれは、弘子先生に舞うてもらったが良いと、その時にハイと言えれる心なんです。信心とは。
 だからこの心が本当に出来た時に、人間は幸せなんです。どんな場合でも、その時点時点を、昨日の結婚の、二つも次々と、断られたような感じの時でもです。只その人は仲人さんの所へ行ってから、こっちの顔は丸潰れと言うて、言うけん、馬鹿じゃんのそげなこつば、それこそ、ああそうですかと言うときゃよかじゃんのと私が言うのです。ところがそんなら、実際人間的にはです。そんなら例えば見合いもした。行こう貰おうになった。だから心に夢を描いている訳ですよ。いろいろと。それが一遍パッとこう、破れる訳ですから、やっぱりちったカッカッくるのも当り前ですけれども。そのカッカッがきたらもう、信心じゃないのですよ。実際。
 そこが成り行きを大事にすると日頃、教えて頂いておる事なんです。そしてそういう時にです。体を丈夫にせよとおっしゃる。言わば心の、それを今日私は、心を丈夫にとこう申しました。そういう時に心の糧が頂ける時だ、力が頂ける時だと言うたら。これはしれっと笑って有難いなあと言うて受けられるでしょう。堤さんが場合でも自分の我を通して、どうでもこうでもお供えせんならん。それをしかも断られておるのにもかかわらず。そげなこつ言うちから私はお供えしょうと思うとると言わずにです。しとったらそれが、それを我を通したら、後々迄困った事になるでしょう。
 人間のね、ちょっとした心の使い方ひとつでそういう事になってくる。しかもね今日私が言う。そういう時こそ、心に力を頂く、和賀心がいよいよ和賀心の糧を頂く時である。和賀心の糧だとそれを思うたらです。ああそうですかで受けられるのです。そして神様の御演出の、言わば微妙なのに驚くぐらい。その事を私は神様にお届けさせて頂きよりましたら、『稲穂のまあだ若いのです。まだこう頭が下がってないのです。まあだ稲穂が出たばっかり、という位。それを今、畔に、あぜ豆というのが作ってあるでしょう。あぜ豆とそれを一握りで一緒に掴んで刈ったところを頂いた。だから稲穂の方だけは直ぐ分かったです。
 ははあ神様がそういう心を作らせござるな彼に、と思うた訳です。どんな場合でも成り行きを大事にするという事は、その時点時点を、有難く受けるという事なんです。しかもそれが普通の者が受けきらんごたるところを、しれしれ笑う。有難いと思うて受ける、という事はもう、既に心に力を受けた事である。受けておる事である。』それがちった、ここの御理解で言うと、心配にはなるけれども、というところなんです。けれどもやはり放っておくような気になって信心してやる、というところなんです。
 言わばムカッとする事はしたけれども、はあこのムカッとするこれが、和賀心を創る糧になっておるんだなあ、という事になるのですから、これはやっぱり有難く受けなければならん。私がそんならお知らせ頂くのもです。まあだ時期がちょっと早い。今刈り取るとには、もう暫く待ったら、これが稔ってからだという事だ、と、稔って刈らなければならない。それを例えば我を張って、実りもせんのをです、刈ると言うたから、刈ると言うて刈りよるもんだから、それは実もなあも入らん。かえって豆の方まで刈ってしまう、という事になる。
 いわゆる堤さんの献木の場合がそうである。あん時例えば、五万円木に出してあるならです。その五万円そのものがです。そんならお金でお供えさせてもらおう、と言うたら、その五万円は、大変生きとっただろう。そして自分の心を、その時点を、大事にしとったら、有難いおかげにつながったであろうけれども。その献木がさあ運賃には今度は五万円もかけなければならん。そして又、水道管までも破った。また植え直さにゃん。とうとう枯れてしもうた。今度は枯れたつを倒すのがまた大変、だというような事に迄なってくるのですから。
 これは皆さんその事だけじゃないです。一事が万事にそうです。そこの受け方次第です。だからその直子が、それをそんならスムーズに受けられませんけれども。そん時の事を思い出して、そういう右がよかぞとおっしゃったら、自分は左と思うとるけれども、ハイと言う気になったら、それが信心だと、あんたが一生の掛け守りにせろと、私が言うた訳が分かるでしょう。いいや私が舞わにゃならん、と言いやきらんなりです。直子の場合は、泣く泣く腹かいて歩いて帰って来ただけ。まあ、泣く泣くでも辛抱したからよかった訳です。
 いいや私が舞うと言うたら、今度は善導寺との関係、弘子さんとの関係まで悪くなるところじゃった。向うは折角引き受けて下さってあるのだから。だからこれはもうね、お互いの日常生活の中にでも、仔細な事の中にでも、自分の我を張るといったような事は、もうその時点でハイと言えれる心。そうして尚分からせて頂く事は、今頂くよりも、もちっと時期が来て稔ってから、もうお米としての値打ちが出来てから刈り取らせて頂いた方が、おかげである事を分からせて頂かにゃ。豆でもそうです。その頃の豆は、まあだびしょびしょの豆、それを例えば、一緒に刈り取ったところでです。もちっと、豆も言うならば。
 私は今日は、その事を思いますね。我が子の病気でも、とこう言われる事は、健康がまだびしょびしょ。本当の健康でないという事なんです。だからははあ、昨日、私が頂いた事を、今申しました事を中心にして聞いて頂いた。この四十八節を。だからこれは、子供が病気をしておる時に放っておくような気になって、信心してやれおかげが受けられるとおっしゃるのは、その病気が直るというだけではなくて、そういう時に神様を信ずる力が、生まれてくる。心の糧を頂かれるのだ、という事を先程申します。体を作れ何事も体が元なりという、御神訓を引用して聞いて頂いた。
 だからここのところを体を作れではなくて、心を作れ。いわゆる和賀心を作れ何をするにも、いや幸せになるためにはこの和賀心が元なりと聞いて頂いた。そんならその和賀心を、いよいよ頂かせて頂く心に力を頂くにはです、心に糧を与えなければいけない。そこでは我のひとつも張ろうごたる問題もある。そこに腹を立てねば馬鹿んごと人から言われるような場合もあるけれども。はあこれが力を受けるんだと、分からせて頂いたらです。その心に対してお礼が言えれる心の状態が段々出来てくる。そういうおかげを頂いて、いきたいですね。どうぞ。